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2015年5月

隠そうとする心理

「隠そうとする心理」―
「彼ら」のつく「我々の弱点(場合によっては)になるものの一つ」だ。
「世間体が悪い」「体裁が悪い」「家の中の事を表に出せない」-これらは、間違いなく「彼ら」が不当な要求をする際に悪用する部分だ。
最近、間違いなく「彼ら」と思われる人物(仮にSとしよう)から、私に言うことを聞かせ自分の思い通りにコントロールしようと、また自分が被害者を装い、周囲を味方に付けようとして、最初に徴候をしめしたのが「これ」だ。

「この件は、他の方には黙っていますから!」
ちなみの、そのSの言う「この件」というのは、既に知る必要な周囲の人間には話しており、また話していなかったとしても私に権利があり、知らない人間にとやかく言われる事ではなかった。
だから、何をことさら「秘密めいた」言い方をしているのか「違和感」を感じた。
理由は、Sにとって不都合だったからだ。「その件」は。
そして、「その件」をSには全く何の権利も無いにもかかわらず、権利者である私を無視して自分の都合のいい形にしたかったからだ。
特段、秘密にする理由は私側には全く無かったので、言われても全く困らなかったが、わざわざ聞かれもしないのに個人的な事を無理やり他人に必要も無いのに聞いてもらう事でもない。
もっとも、もしかしたら、本来知る必要のある人間に話していない人にしたら、Sの言うことは「多少の脅し??」になったのかもしれない。
後から言っても問題ないレベルの内容だったが。
(ことさら「秘密めいた言い方」や「こちら側が周囲に特別言っていない事を相手とそこまでの関係性も無いにもかかわらず聞きたがる」行為をされたら、もしかしたら「彼ら」ではないか?と一度は疑ったほうがいい。)

次にSから「間違いようのない人格否定」をされ、その時点で記録を開始した。
言葉の圧迫、というのを久しぶりに感じた。
とりあえず、その時は適当にSに合わせて適当に持ち上げ適当に帰って頂いた。

これをSがみているかもしれないので、詳細は省くが、「彼ら」は「世間体」を重視する人間に対して「それ」を「恐喝のネタ」にする。
本来なら「恐喝のネタ」にならないことを。
忘れてはならないのが、表沙汰になって非常に困ったり世間体が悪く評判を落とすのは「彼ら」だ。
こちらに恥じるべき事が無い限り、正直に周囲に話しておいた方がいい。

「彼ら」の嘘に騙される人間もいるだろうが、そういう人間はいずれ「彼らのような輩に騙されて貴方の足を引っ張る」

だから、残念だがこれを機会に切っていい。
大切な友人だったら、一度はこちらに嘘は無い事、「彼ら」の言う微妙に自分を被害者に仕立て貴方を加害者に仕立てる嘘を理解してもらうための話をするのは、いいだろう。
だが、貴方が話して納得しないなら、もう切った方がいい。
何故なら、一方的でよくよく注意深く聞くと、つじつまの合わない不条理な事柄の「彼ら」の話だ。
無理に事実を捻じ曲げるので。
それに気づかないなら、例え被害者でもないその騙された友人に悪気が無くとも、いずれは貴方にとって致命的になる。
Sの言った会話を記録してたら、無理やり自分の都合の良いように事実を捻じ曲げようとしているので、とてもじゃないが理屈に合わない事を言っているのに改めて気付いた。
これに気がつかず疑問も持たないなら、その方は「彼ら」と同じように頭のネジが5~6本ぶっとんでるか、「彼ら」に逆らえない何か弱みを握られているかだろう。

今回の一件を話した方々の内、一人の方が、「他の人間だったら、対応を知らずに相手の思うつぼになっていたかもしれない。まるで相手は「やくざ」だ。」
人間は、生きていくと弱くなる時もある。だが、一生懸命働いて正直に生きていけば、「貧乏」であっても恥ではない。
一生懸命勉強したのに、試験に合格しなかったとしても恥ではない。
たとえ仕事に失敗しても、もし何かで失敗したとしても。

だから、「彼ら」の攻撃のネタにされないように、外部と接触する際に「隠そうとする事柄」は持たず、情報は開示していつどこにいるか分からない「彼ら」の力を無力化したほうがいい。
そして、本当に秘する事は死ぬまで口に出さない事だ。

私は、正直言ってSのことを知らない。だが、Sはこのサイトや私の書籍を持っている。が、そこまでだ。(ブログや本も、字面を追うことはできても、「理解する」事は無理だと思う。)
本当に知られてはいけない事、また知らずにSが既に地雷を踏んでしまった事は、S本人は知らない。
そうして、私は全くSの背景や個人的な事をほとんど知らないが、Sは自分の踏んだ地雷に対して、為すすべもない事は知っている。(相手の力の限界は、或る程度の付き合いで推し量れるものだ。)
勿論それが何か、ブログにも書籍にも無く、まして最近知り合った共通の知人も全く知らない。(ちなみに、このブログの記事で「脅そう」としたら、既に人間として終わってるだろう。)

ただ、その地雷が何であれ、いずれはそれが致命傷となる事は確かだ。

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好意の返報性

人は、相手から好意を示されると、それを返そうとする心理が働く。

これを「返報性の原理」と言っているが、「彼ら」にかかると返すだけの恩も無いのに、あたかも返す義務があるように思わされる事がある。
また、過大な要求に対して、例えば周囲にそれを相談した場合、相談された相手の中には「それだけ要求してきたということは、それだけのことをしてもらったのでは?自分に都合のよいように、受けた恩を過小申告しているのでは?本当の事を言っていないのでは?」と思われ、そのように答えられる事によって、相談した方は「自分が間違っていたのだろうか?」と今度は自分の基準までも疑うようになる。
相談を受けた相手が、冷静に、客観的に、精査して判断できる人間で無かった場合、つまり相談する相手を間違えると、「彼ら」の被害者は二重に傷つくことになり、へたをすると自滅への道を進むことになる。

「彼ら」は、「異常で不当な過大要求をする」
たとえ、それを第三者が間に入っても、「彼ら」自身、要求できる権利があると思い込んでいるので、自信たっぷりに口に出す。
第三者は、そのあまりの自信のある態度に、相談してきた「彼らの被害者」が、自分に嘘を(本当の事を言っていない)言っているのではないかと疑いの目を向ける。
「彼ら」の捻じ曲げた自分に都合のよい話を、「被害者」がその場で訂正するにも、おかしな理由で「彼ら」はそれを遮り、「被害者」の「悔しさ」は不完全燃焼のまま耐えるしかなくなる。
「彼ら」の自分は悪くないという長い回りくどい話し方(聞いている第三者は、注意深く聞いていないと訳が分からなくなるだろう)と、あからさまな演技過剰のため息や泣き落しに、一つ一つ反応していると、呆れてこちらも口数が少なくなり、「彼ら」がいかにも正しかったと言うままに話は終わってしまう。
その場にいる第三者は、どう思っているのか・・
もっとも、相対する人間や第三者が、うまく「彼ら」をおだてて「彼ら」が主張する自分の権利なるものを調子に乗って話してくれた時点で、にこやかに「彼ら」に対応しても、実は「こいつ頭のネジ2~3本ぶっ飛んでるんじゃないか?!」と思っている事など、「彼ら」は知る由もない。

最近、「彼ら」と思われる人物に関わってしまった。
もう少し、私が若かったら、その術中におちいっていたかもしれない。
その人物も、このブログを見ているかもしれないので、(うっかり教えてしまった。)具体的な事はかけないが、幸い「彼」には、もう先が無い このことだけは、良しとしなければ、と思う。
「本人は、自分で分かっていない。自分の言動が、周囲にどう取られているかも理解していない。」これが、「彼」の言動を実際見聞きした人の感想だ。
それが、「認知の歪み」なのだと思う。

何故、自己愛性が40代になると異常な言動が目立ち始めるのか、分かった気がする。
顔は年相応に老けて、幼い表情と、幼稚な言動、常識的な思考を本を読んでも理解できない。
自分の都合のよい世界に作り替えようと、一対一の場合は、理不尽に理由なく相手を罵倒する。
だが、世間は、40代ともなれば、年相応の対応を求めるものだ。若い頃なら、多少の理不尽さや無軌道な部分は、「若いから、そういうこともあるだろう。」と大目に見てもらえた部分が、その年の頃になると「普通の常識が通じない相手」と言わざるおえなくなる。
あとは、いかに「彼ら」が取り返しのつかない馬脚を現してくれるかだ。

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