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2017年6月

母が入所しました

この1年、矢のように時間だけが過ぎました。

実は、昨年母が介護4になりました。
2014年介護2となる前の思えば2007年には、既に母の認知症が少しづつ表れていたのだと思います。
姉夫婦が両親の最後の貯えを全て搾取して(義兄は銀行員の為、父や母の口座を預かっていた。しかも、別銀行の預金解約時には、現金を受け取りに来ていた。両親合わせて気づいただけで総額1,500万円。)実家や母の携帯電話番号の着信拒否にした頃がそのころで、私に母よりまめに連絡が来るようになったころでもあります。
病院を1ヶ月半の間に5件も移動(病院と喧嘩して)した頃(2009年)より、母の世話を始めて早8年。
父他界の2013年より毎日食事と薬を届け、精神科・内科・外科へ通院をするようになって早4年。

介護4の為か今年の年明け早々にケアマネより特養の申し込みを勧められ、気が進まないながら申し込みをすると、先日すんなり入所が決まり既に入所して1週間。
400人待ちと言われていたところでしたが、果たしてこれで良かったのか・・
毎日通ったところで、一緒に住まわれて介護されている方から比べれば、たとえ周囲から大変だと驚かれても私のそれは大変なうちには入らないし、「介護」と思ったこともありませんでした。

それよりも、父から半殺しに遭う前の母は、少なくとも少し身勝手でも正義感の強い、情の熱い世間知らずのおっちょこちょいのお嬢さんでした。
それが、「彼ら」と同じ振る舞いや言動をするに至り、かつての愛すべきおきゃんなお嬢さんは、影も形も無くなってしまった。
夫は、もともとそういう素養があったのだと言います。
今、母は入所してわずか1週間で、誰がここにつれてきたのか、既に覚えておりません。

2007年、姉夫婦に見捨てられただろう母から連絡がきたとき、母が入退院を繰り返すようになった時、やっと私の出番だと思いました。
認知症の兆候が現れた時、やっと父に壊されていた母が、戻ってきてくれたんだと思いました。たぶん、私はそれだけ「母」を求めていたのでしょう。

脳トレや塗り絵や読書やチョコレート、水分補給、認知症に良いと言われる生活習慣を身に付けさせようと努力して、精神科の主治医に、毎月の診察の際には日々の記録レポートを提出して助言を頂いたりしながら、認知症の進行を少しでも食い止めようとしましたが、それでも昨年介護度数が2から4へ進み、一時へこんでおりました。

きっと、周囲の方々が言うように、私や母は運がいいのでしょう。
何年も待つようになる特養に、申し込み後すぐ入所できたのですから。
私達夫婦も、この4年が文字通り矢のように過ぎたので、これから今後の事もよく考えていきたいと思います。

ここ1年、せっかくコメントを書いて頂いていたのに、皆様にお返事が書けなくてごめんなさい。
もう少ししましたら、1年ぶりのお返事を書かせてくださいね。

昨日から、豊田議員の暴言・暴行がマスコミを賑わせておりますね。
姉を思い出しました。
はっきり言って、姉の方が凄まじかったです。(他人のそれを聞くのは驚きましたが)
耳をふさいだ私の耳元で、私が部屋の隅にうずくまって追いやるまで、怒鳴り続けたのですから。
客観的に見ても、やはり姉はおかしかったんですね。
電話口で姉に歌を歌われて邪魔をされた時、相手の友人達は、よく私を見捨てなかったと思います。もっとも、当時の私はその異常性を理解していませんでしたが。

大変だ。とか、不幸だ。とか、思ったらそれまで。
人間は、もし何も考えられなくなった時、目の前にあるものを粛々とただこなし続けるしかない。

幸・不幸を決めるのは、私自身です。私しか決めることのできないことです。

それが、「彼ら」に勝手に「aiは不幸」「お前は何をやらせても駄目」「お前は生まれるはずの無かった人間」「お前はこれからもできそこないのまま」と決めつけられ繰り返し日常言われ続けた事で、得た真実です。

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